ステレオタイプで感じる謎の恐怖
こんばんわ。良い天気で小学の旗ふり当番も気持ちよかったです。 この一週間は旗ふりのプロを目指します。さぶです。
まいさんの記事
えーーっと
この見えない何かと戦う?↑の記事と
この記事↓に全部書いてあって、
ただこのことを明確にしていけばいいだけじゃないか
もう私、書く事ないじゃないか笑
というほどの気持ちになった。
まいさんの記事を読んで『ムーの大移動に立ち向かって宮本武蔵になろうとしている人』が頭の中に出て来た。めっちゃおもろい。笑
もしムーの大移動に立ち向かって宮本武蔵になろうとしている人が近くいるのだとしたら、にっこり笑ってから逃げてください。そしてやってしまっていたらやめたら楽になる。私もやりがち。逃げてください。笑
謎の敵と戦うのをやめて自分のユートピアを作るとこに励みましょう。共に。
そして自己犠牲と責任感、我慢といった一見良いことかと思われる類いの謎の敵と戦うのもなるべくやめましょう。これらのムーの大群の中で迷走状態になると・・・言うまでもなく・・・
我慢するって最終的に狂気に導かれるからもはや良い人になろうとするのではなくて自分の苦手なポイントを明確にしておいて、それをソフティに相手に伝えるなり自分で回避するなりして自分の心地よさを追求したほうがいいのではと思うこの頃です。
今のところ記事の着地点が見えないので以上の話は放置して『厄年』の話に切り替えたいと思います。
厄年って『なにか悪い出来事が多発する年』『悪い出来事が起こらない為にお祓いをする』ってなんで思ってるのかずっと謎でした。ステレオタイプでその流れに身を任せてお祓いに行くのが苦痛な思春期だった。夜に爪を切ったら親の死に目に会えないとかそういった迷信で謎に脅される感覚のような。
最近この話への着地点を見つけたのですが、勝手な私の戯言として聞いてもらえたらと、思っていた事と少し調べてみたものをまとめて書いてみたいと思います。
厄年の『なにか悪い出来事が多発する年』『悪い出来事が起こらない為にお祓いをする』は教えが広がる時に拗れて伝わっていった現象と同じ現象なのじゃないかと。
そして調べてみました。↓
厄年についてこのような事が書かれていた。
『成人式がこどもから大人になる節目であるように厄年も一つのタイミングに過ぎず人生を振り返って中間決済をする節目。』
『厄年はいままでの自分を見つめ直し自分の人生を良い方向に変えるためのチャンスで人として一人前の人間になっているはずの厄年の年齢をきっかけに、自分の思うような人生が送れているかを振り返り、もしそうでなかった場合には自分の現状とあり方を見直す年』
それで勝手にまとめてみるとしたら
『自分の役割をちゃんとわかっている?自分の役に立ってる?』の役年で、
より良い方向へ向かうための、節目じゃないか
そして『お祓い』とは『災難を祓う』のように消し去るという意味の儀式ではなく
『神様の力が体の中に入ってくると今までの罪や穢れが今度は自分を活かす力に変わって現れてくる』というマイナスをプラスに変える働き、それが本当のお祓いの意味なんだそうです。(本当かどうかはわからないがこっちの方が好き)
なーーーんだ厄年もお祓いも怖くないし、なんだか素敵(?)なものじゃないか。と思ってしまった。厄年間近、私の中の見えない敵が一つ消し去られた。
さぶ
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